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宮川 輝
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(24歳0ヶ月29日) 最終更新日:2019年9月16日(24歳1ヶ月16日)
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宮川みやがわ あきら

宮川 輝
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(24歳0ヶ月29日) 最終更新日:2019年9月16日(24歳1ヶ月16日)

前書き 善と悪

人に褒められることならたくさんしてきた。両手の指だけでは数え切れない。指折り数えても10までが限界だ。10まで数えた指を広げて、また指を折ってを繰り返していけば延々と数えられる気もするが、しかし十の位をどこまで数えたのか忘れてしまう。数えられないほどの善い行いをしてきたけれど、しかし、すべてを覚えていられるほどには頭が良くはなかった。こんなに頭が悪くても、善い行いをすることはできる。それはこの身を通して、よく経験してきたのである。

人には褒められなかったこともたくさんしてしまった。両手の指だけではとても数え切れない。指折り数えても10までが限界だ。10まで数えた指を広げて、また指を折ってを繰り返していけば延々と数えられる気もするが、しかし今度は、百の位をどこまで数えたのか忘れてしまう。数えきれないほどの、悪いとまではいかないまでも、善くはない行いをしてしまったけれど、しかし、そのすべてに悪気があったわけではない。どんなに善い行いをしようとしても、まるで悪い行いをしたかのような結果を招くこともある。それもこの身を通して、嫌というほど経験してきたのである。


善い行いをすることが善人であるならば、宮川 輝は善人ではない。それなりに悪いとされるような行いをしてしまった自覚がある。善人らしく呼ばれたことなら何度かあるけれど、しかしその度に、自分の中に生まれる〝影〟を強く感じていた。その影はまるで「お前は善人ではないだろう」と囁くように、光に近づくほどに、自分の中に確かな感覚として現れてくる。それはとても苦しいけれど、表面ではいくらでも善人らしく振る舞うことができた。他人からも、善人らしく見られてきた。しかし、内面に芽生えたこの影には、どうしても嘘をつくことができなかった。

悪い行いをすることが悪人であるならば、宮川 輝は悪人ではない。それなりに善い行いをしてきた自覚がある。悪人だと呼ばれたことはないけれど、それでも、誰かを心無い言葉や行動で傷つけてしまったことなら――誰かに向けられたことがあるように――誰かに、向けてしまったことがある。しかしその度に、自分の中に輝く〝光〟を強く感じていた。その光はまるで「お前は悪人ではないだろう」と囁くように、影に近づくほどに、自分の中に確かな感覚として現れてくる。それもまた苦しい。しかし、誰かにお前は悪人だと言われてしまったら、周りからも悪人だと見られてしまうかもしれない。自分でも、自分自身を悪人だと思い込んでしまうかもしれない。しかし、いくら悪人だと思われようが、どんなに自分を悪人だと思い込もうが、内面に芽生えたこの光のような輝きには、どうやっても嘘はつけない。


この善なるものと悪なるものは、表裏一体、2つで1つのように見える。表と裏を同時に見ることはできないが、2つを切り離すと全体性を欠いてしまい、物事の真実が見えなくなってしまう。しかし、どんな善にも、微かな悪がある。この世に生まれた生き物はみな、動物であれ植物であれ、殺さずにしては生きることができないように。そしてどんな悪の中にも――それがどれほど、どれほど、どれほど微かであろうとも――必ず、善が隠れている。動物であれ植物であれ、生きるために殺すこと、そのすべてを悪としては、この世界の秩序が保たれないように。

善なる行動は存在し、悪なる行動も存在する。これは認めなければならない。どんなに些細であろうとも、人を喜ばせることは素晴らしい。そしてどんな理由があろうとも、人を殺すことは決して許されず、傷つけることを正当化してはならない。これらは普遍的な価値観であり、いつまでも揺らぐことがない。しかし、善い人間と悪い人間という、2つの異なる人間が存在するならば、どちらにもなれない――いや、どちらでもある――宮川 輝という人間は、いったいどのように生きるべきかと、この24年間、ずっと悩みながら生きてきたのだけれど

今ここに、自分自身の経験から2つでつの結論を導き出した。


行間 モノと、者。

キラキラと光って見えるモノに、人間は集まる。お金やモノなどの物質、そしてなにより人間に、人間はとても弱い。暗闇を恐れて、煌々と光る街灯に集まる、夜の羽虫たちのように。「飛んで火に入る夏の虫」と云った、昔の智慧ある賢者の叡智が、年齢を重ね、経験を重ねるにつれて、身体の隅々にまでよく沁みる。今日もまた、光を求めて苦しむモノの姿が、あちらこちらで目に留まる。それは光の限界を、まだ知らないモノたち。そのモノたちがどこからきたのかを、宮川 輝は知らないけれど、しかしまるで、この世界にあるキラキラと光って見えるモノの美しさに目を奪われて、自らが広げている影を知らずにいた、愚かな自分を見ているようなのである。皮肉なことよ。自らが光をさえぎることで、周囲に、そして自らに影が広がるとは気づいていない――まだ気づけない――いや、気づこうともしていない、無知で、浅はかで、無理をしているモノたち。自分はこの世界の光ではなく、光にもなれず、光を手にすることもできないのだと、まだ悟っていないモノたち。光を求めて生きるその必死さは、生きることへの矛盾した執着心と、死への恐怖と逃れたさが起源のように見えるが、それは愚かであると、光の限界を経験した者は云うだろう。この世界にあるキラキラと光って見えるモノだけでは、この世界にある影を拭いきることはできないのだと、宮川 輝は言うだろう。光に集まるモノの影に、自らの身を置いて。まだ、どれほどいるのだろうか。光を求めて影を広げている、やさしい善人のようなモノたちは。光になろうとする、影のようなモノたち。それはまったく、必死に善人になろうとして、いつしか悪人のようになっていた、かつての自分そのものである。しかし、もはや宮川 輝は善人になろうとすることがなければ、もちろん悪人になろうともしないので、この世界に存在する光と影の中に、自分自身を見失うことがなくなった。その代償としてか、この世界に存在する善と悪を、数えることも、覚えることも、区別することも出来なくなってしまったけれど、しかし、この世界に存在する善と悪を、認識するチカラは失っていない。なぜなら宮川 輝という人間は――この世界の万物と同じく――この世界の善悪と、不可分の存在だからである。光に集まり影を広げているモノも、影の中で光を忌み嫌っているモノも、いずれその命を終えてゆく。地べたで影を作ることもなく、あり余るほどの光を受けて。

 

一方で、キラキラと光って見えるモノがあろうと、そこに暗闇があろうと、同じように向き合いながら生きている者がいる。「飛んで火に入る夏の虫」と云った、昔の賢者のように。自分が光に近づけば、周囲に影を広げるだけではなく、いずれ自らの身を滅ぼすことにもなると、よく心得ている者。自分はこの世界の光ではなく、光にもなれず、光を手にすることもできないのだと、悟った者。智慧があり、思慮深く、道理をわきまえている。生きることへの矛盾した執着心がなく、いつも死ぬことを忘れていない。その者がどこからきたのかを、宮川 輝は知らないけれど、しかし、かつての愚かな自分には見えなかった――見ていなかった――いや、見ようともしていなかった、この世界の光を越えた、輝きを放っているようである。その者の輝きは、この世界に広がる影を、明るく照らしている。しかしどういうわけか、その者は自らを、この世界の光とはしていない。それはきっと、自らが善人ではないことを悟るからではないだろうか。この世界にあるキラキラと光って見えるモノで、満たされようとはしていないからではないだろうか。光に集まるモノたちに、影に安住するモノたちに、自らの輝きをさえぎられないため――いや、あなたの中にもこの世界の光を遥かに越えた輝きがあるのだと、伝えるためではないだろうか。聡明な者よ。その者は、光の中を歩いている。この世界の影と、自らの陰と向き合いながら、自らをこの世界の光とはしないように。その者は、影の中を歩いている。この世界の光と、自らの輝きと向き合いながら、自らをこの世界の影とはしないように。その者は、この世界の二元性を包括しながら、しかし超越しているように見える。宮川 輝に、その者の輝きがあるだろうか。しかしその者も、いずれその命を終えてゆく。光を求めて影を広げていたモノたちや、影の中で光を忌み嫌っていたモノたちと同じように、地べたで影を作ることもなく、あり余るほどの光を受けながら、生きていたときのように。

 

   ***

 

 


序章 宮川 輝として

子供の頃、大人というのはなんでも知っている超人で、自分も大人になれば憧れの〝完璧な人間〟になれると、本気で思っていた。幼稚園生だった頃は、ランドセルを背負った小学生が、やけに大人に見えていた。小学生になると、制服を着た中学生が、とても大人に見えていた。中学生になると、腰パンをしたりシャツを出したりネクタイを緩めたりして、自由に生きている高校生が、なんだか大人に見えていた。専門学生になると、スーツを着て規律に忠順と服する社会人たちが、大人だと思っていた。そして社会人になると、世界を変えた偉人たちや大きな影響力を持つ人間になることが大人のあるべき姿、つまりは完璧な人間だと思って、彼らのようになろうと、様々な取り組みをしてきた。

しかし、現実は違っていた。どんなに知識を蓄えた人間も、どんなに経験を積んだ人間も、どれほどの偉業を成し遂げた人間も、完璧ではなかった。あのとき憧れていた小学生は、まったく大人ではなかったし、あのとき憧れていた中学生も、それほど大人ではなかったし、あのとき憧れていた高校生も、大人とは呼べなかったし、あのとき憧れていた社会人を、大人とは呼びたくなかったし、あのとき憧れていた偉人たちも、大人ではなかった。どんな人間も大人ではなかったし、憧れていた完璧な人間など、どこにも存在しなかった。


では、完璧な人間とはなんだろうか。宮川 輝が求めていた――そしておそらく、世界中の誰もが求めている――本当のモノとは、一体なにであるのだろうか。心の中にポッカリと空いたこの寂寥感を埋めるために、24歳になるまで様々な取り組みをしてきた。知識を蓄え、経験を重ね、物質的な豊かさを手に入れながら、人間関係を求めてみたりもした。ところが、欲しいと願い手に入れたものは、いつしか失うことへの恐怖に変わり、たくさんの〝モノ〟で自分を満たすことは、同時に失うことへの苦しみとセットであるということを経験した。そして、どんなモノ――お金や知識や名誉や人間関係などの、この世界にあるキラキラと光って見えるモノ――も、心の欠如感を一時的に埋め合わせするに過ぎず、自分を人間として完璧にはしてくれないのだということを、心の底から実感した。むしろモノで自分を満たそうとする人間の生き方は、完璧とは遠くかけ離れていくどころか、この世界を地獄に変えていくのだということも。

人間として完璧になろうとする試みは、一見すると素晴らしく、立派で褒められるべきことのようだけれども、しかし、自らの中にこの世界の二元性を超越した輝き――それを「悟り」や「目覚め」、または「神」と呼ぶ者もいる――を見つけないかぎり、お金や知識や名誉や人間関係などの物質という、この世界にあるキラキラとした光るモノに集まるばかりで、いつしか光を求めて周囲に影を広げる、善人のような悪人に成り下がってしまうということを、宮川 輝は24年間の人生でよく学んできたのである。宮川 輝に欠けていて、本当に求めていた唯一の〝モノ〟とは、この世界に完璧な人間などいないのだと、この世界に完璧なモノなど存在しないのだと、宮川 輝はどれほどのモノを手に入れようとも、人間として完璧にはならないのだという、この宇宙の絶対的な真実を心の奥底から認めることだった。



善人になろうとすると、正しいことをしようとしても、真実と向き合うことができなくなってしまう。善人になると、自らの陰を認めることができない。それは真実ではない。

悪人になるために正しいことをしようとしても、それもまた真実と向き合うことにはならない。悪人になると、自らの光を認めることができない。それもまた真実ではない。

宮川 輝は自らの光と陰を認めることで、真実と向き合いながら生きている。善人にも悪人にもなることはできないが、しかし、それは真実である。昔の智慧ある賢者の叡智――この宇宙に存在するあらゆる二元性はそれぞれが別々で存在しているのではなく、2つで1つであるという深い気づき――に、自分自身を照らし合わせることで、宮川 輝はあなたに自己紹介する。

人として、人を越えて。