「言語はいかに我々の考えを形作るのか」を観た感想。【TED】

「言語はいかに我々の考えを形作るのか」を観た感想。【TED】



どうして日本人が英語を話せないのかと聞かれたら、それは学校での教育が悪いとか、発音が正しく出来ていないからといった理由はすぐ思い付くけども、やっぱり文化の違いが大きく影響しているのは明らかだ。

アメリカ人の話す言葉や振る舞いを見ていたら、それは日本のコミュニケーションとはまったく違うのだ。アメリカとイギリスでは同じ英語を話しているけれど、はやりコミュニケーションの方法はまったく違っている。日本は“非言語”、もしくは“察する”というコミュニケーション手段で、なおかつ正しい文法を使って話すことは少ないから、なかなか言葉にして表現するというのは難しい側面があるのかもしれない。

僕もこうしてブログで文章を書いているが、実際に口で話す言葉遣いとはまったく違うんだ。口語文で書いたら間違いなく読みにくいから、こうして「だ・である調」で書いている。というか、こう書くしか手段がなかった(笑)。

言葉を理解するだけではなく、言葉ではないものも理解しなくてはいけないときなのかもしれないね。

言語が与える印象の違い。

世界の共通言語としては英語が使われているけれど、それだけでは不十分なのではないかという意見には僕も同意する。言葉の表現だけを見ると、英語はとてもダイレクトで対立しやすい言語のように感じるときがあるのだ。

まず英語には必ず主語が必要だ。なにを語るにしてもまず対象の人物が必要で、たまに架空の第三者を表すときにも“You”を使うことがあるから、最初の頃はまるで自分のことを言われているかのような錯覚に陥ったことがある。

そして下のような画像は英語で「He broke the vase.(彼はツボを壊した。)」と、誰がやったか明確に分かるように表現される。

「言語はいかに我々の考えを形作るのか」を観た感想。【TED】

しかしスペイン語ではアクシデントの場合は「ツボそのものが壊れた。」といった表現をするそうで、特定の誰がやったかは文章に含まれないそうだ。

日本語では「ツボを壊しちゃったね。」とか「ツボが壊れちゃったね。」と表現されるだろうか。「男性がツボを壊した。」というと言及しているようであまり好まれない。「ツボを壊した男の人。」は文章としていいかも知れないが、少し硬くなるから話し言葉としては不自然な気もする。

というか、僕はこの場面に遭遇したら「あぁ〜、まぁしょうがないね。」というかも知れない(笑)。英語では「It’s unfortunate.」と表現するかも知れないが、やはり日本語のそれとはニュアンスが大きく違う。

主語を頻繁に使わない日本語を使う僕らにとって、はやり英語を言葉だけで理解するのが難しいことがよく分かった。

 

これだけで言語がどのくらいその人物に影響を与えているのかよく理解できたが、さらに対象物に対する見方も大きく異なるから面白い。太陽をドイツ語では女性的なもの、月を男性的なものと捉えているようだけれど、スペイン語はその逆なのだ。

「言語はいかに我々の考えを形作るのか」を観た感想。【TED】

使う言語が違うだけでなくで言語そのものが持つ意味が違うのだから、全世界が繋がろうとしている今、僕たちは言語ではない違ったなにかが必要なのかも知れない。

言葉のあるものと、言葉のないもの。

あなたは今この瞬間、スマホやパソコンの画面を見ているはずで、その対象がなにであるかを知っているはずだ。だが、究極的にはこの世の物質をなに1つとして僕たちは知らない。

ただ、謎にラベルを張っているだけだ。

言葉が付けられた時点で、その物質は2つになる。

言葉が付けられたものと、言葉が付けられていないものだ。

もちろん僕らは言葉に頼る必要がある。誰かとコミュニケーションを取るのに言葉なしでは難しい。言語は人間が意思疎通をするために発達した素晴らしい能力で、この世の中にはなんと7,000以上もの言語があるのだとか。

「言語はいかに我々の考えを形作るのか」を観た感想。【TED】

そして、言語にはそれぞれの美がある。中国からの言葉をアレンジしたり、外国語をカタカナにしたり、主語を何種類にも分けた日本語が使えることを、僕はけっこう嬉しく思っている(笑)。

だがそれと同時に、言葉によって定義された意味に執われる必要はどこにもないということをよく覚えておくべきだろう。自分の視点が絶対的に正しい訳じゃなく、単なる狭い狭い1つの解釈でしかない。

とすれば、相手の解釈をより受け入れられるようにもなるだろうか。

日本語は様々な言語を吸収しているから、日本人は相手を受け入れることは得意だと思っている。

もちろん、受け身になりすぎないことも大切だが。

どの言語を使うかではなく、どのように使うか。

僕は英語を学んでいるが、試験に合格するための文法や単語を覚えようというつもりはまったくない。もちろん役に立つのであれば活用するが、資格のために言語を学ぶというのは僕にとって重要ではないからだ。

僕はどの言語を使うかではなくて、その言語を自分はどのように使うのかを知ることの方が重要だと思っている。大切なのは言語ではなくて、言語を使う僕の方なのだ。

そしてわからない言語に出会ったときも、僕は言葉に依存しない。「あぁ、この人はこの気持ちを、こうやって表現するんだな。」と分かればそれでいい。相手の表現方法を理解することは大切だけど、自分が外国人っぽくしゃべれる必要もなければ、違う言語の表現に流される必要はどこにもないと思っている。

 

こうしてブログで記事を書いていると、文章が物事の見方に大きく影響を与えていることがあるから、それは大切だと思う一方で、言葉に執われすぎないよう気を付けているんだ。

物事にラベルを貼り付けれるほど、この世の中は概念化されてしまうからね。言葉は人々を繋げるものでなくてはならない。

あれだとか、これだとかいう言葉の定義に執わることなく、僕はこれからも言葉を使ってブログを書いていくつもりだ。